去年のGWのころでしたかね、『ズートピア』が公開されたのは。
娘と見に行きました。『ズートピア』が見たかったというよりは、映画をなんか見たかったという動機。
で、結果からいうと、かなり面白くて、こいつァ拾いものだなと思った次第なんですよ。
で、誤解の無いように先に言っておくと、「SFだから凄い」「SFじゃないから格が下」みたいな意味は全くなく、本当に純粋に、あれはSFだったと驚いたので。ディズニーの、ミッキーマウスやドナルドダックのような擬人化した動物キャラではなく、ちゃんと動物である意味のある存在なのですよ、あれは。そこんところ勘違いして、子供向け映画だからと思って見ていない人が多いみたいなので、もったいない。
じゃあSFってなんだと言われると、まあセンス・オブ・ワンダーとか世界の哲学科学仮説小説とか、色々な言い方をすることが出来ると思うのですが、「思考実験」というのも大事なポイントだと思うのですよ。
思考実験、つまりある種の仮定的前提があって、じゃあそういう前提が現実の物となった時、世界は、社会は、技術はどうなるのかということを考察しシミュレートするということ。仮定的前提が科学的に有り得るかどうかは問題ではなく、それが成立したとして他のことはどう変わるのか、それを考えてみたものはSFと呼べるんじゃないか。そういう話です。
つまり仮定前提が科学的に成立するかどうかは問題じゃない。それが成立したとして(if)、そこから演繹的に想定される世界はどのようなものか、と考えるのがSF。未来予想とはそこが違うのです。
だからですねえ、例えば宇宙戦艦ヤマトは、超光速航法「ワープ」が存在したとしてどのような世界、どのような物語が出来うるかという点が問題のSFなのであって、そこで、「超光速航法なんて科学的にあり得ない」とか言って得意げにしている某「空想科学読本」なんて、バカというかもの知らずとしか言えなくて。サッカーに「手があるのに手を使わないなんておかしい」と文句を垂れて、なにか凄いことを言ったと思って得意になっている人と同レベルなのですよ、あれは。その話題を交わす価値もない相手です。
閑話休題。
『ズートピア』は、「動物が人間のような社会を作る存在として進化したら、どのような社会を作るだろうか?」と言うことを真剣に考察した世界です。だから、普通の動物擬人化ものではあまり問題とならない「身体の大きさ」や「食生活」まで、考証を重ねている。ズートピアでは身体の大きさによって、住む区域が分けられています。もちろん、別にそこに隔離されているわけではないので、互いの区画にはいるのは自由なのですが。まあ、身体の大きさが極端に違う知的生物が共存して社会を作るなら、そうなるだろうねと言う設定。
社会設定だけではありません。
肉食動物は草食動物を食べたいという"本能"があるのか、それとも理性で押さえられるのか、そして逆に草食動物は肉食動物への"本能的な"恐怖が存在するのか?
そしてその"本能"に根ざした感情は、偏見ではないのか、理性では押さえられないものなのか、社会的には押さえられないものなのか?
これが、この映画のテーマのひとつです。(もうひとつあって、それはハッキリと映画内で言葉にされている「人は誰でも望めばなりたいものになれる」ということです)
そしてこれは、現実の現代世界のアナロジーにもなっているワケです......感情と理性と偏見と社会の関係という大きく普遍的なテーマに。
しかもそこには、人間体に進化した動物たちの物語である必然があるわけですよ。そういう設定にすることによってより明確に、より鮮明にテーマが打ち出せる。(しかもポリティカルな表現問題を引き起こすこと無しに!)
とまあ、こんなふうに設定も深いが、単純に物語としても面白いです。最初のうちは「すげぇCGだな」と感心しているのだけど、気が付くと、CGということを忘れて見てる自分がいたりして。
その上伏線バリバリです。伏線バリバリの映画って基本的に大好きなんですよね。「バック・トゥ・ザ・フューチャー1」とか「ダイ・ハード」シリーズとか。
あと、細かい設定もかなり考慮されてます。
これ、娘に指摘されて気が付いたのですけど。歌姫ガゼルの角がとても長いですよね? でも、ガゼルの角の長いのって、オスなんですよね......。と言うことは、あの歌姫は実は......。そして、その歌姫が「望めば誰でも、なりたいものに成れる」と歌っている意味は......。
まわりのダンサー、みんなマッチョのトラですしね。
深いです。
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